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<<   作成日時 : 2012/08/30 08:21   >>

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いつの時代にも、弱い人のために、熱い心をもって一生を捧げ、そして終えた人はいる。

今日はその一人、ジョージ・ランズベリ―のことを記す。

津崎哲也先生は論文「ジョージ・ランズベリの政治と福祉〜救貧制度改革・セツルメント・非戦平和」において「ジョージ・ランズベリ―はテイラーの『英国史』によれば「20世紀英国政界において最も愛された政治家」と述べるほど絶賛する。

ランズベリ―は、英国労働党の党首に1931年になる。実はこの時、労働党は総選挙で大敗して、執行部は入れ替わる中でランズベリ―は就任している。しかしランズベリ―は、と党の方針である「戦争やむをえず」と対立し、1935年党首を辞任している。ランズベリ―は、彼の信条である非戦のために時のヒトラーやムッソリーニとも精力的に会談したようであるが、残念ながら成果には結びつかなかった。

 ランズベリ―は、若いころより、キリスト教会のフェシックス・キット牧師の影響を受けて炊き出し活動や反戦活動を行った。そしてこういう中で同じ仲間のベシー・ブラインと21歳で結婚し12人の子どもをもうけた。

ランズベリ―はロンドンのイーストエンドに定住しここで貧しい人々と共に改善運動に一生を捧げたのであった。

ちなみにこのイースト・エンドというのは、ロンドンのウェストエンドと対象の地で、ウェストエンドが富裕層が住む町に対して、最も貧しい人々が住む町であり、スラム化下まであった。
余談だが、今回のロンドンオリンピックのメイン会場などは、このイーストエンドに作られており、当局は、オリンピックを契機に町のテコ入れを行ったが、結果として格差が広がったとも言われている。

 話を戻そう。彼は、1909年に、王立救貧法調査委員会の委員としてフェビアン協会のウェッブ夫妻と、少数報告に署名している。
このフェビアン協会がのちの英国の労働党につながっていくことは有名であり、トニーブレア首相[当時]もフェビアン協会のメンバーだった。

ではこの王立救貧法委員会とは何か。
この組織は、救貧法を今後どのようにするのか、端的に言えば、廃止するのか存続するのかを検討した組織で18名の委員で構成され、そのうち14名が多数委員、4名が少数委員とされ、ウェッブと共にランズベリ―も救貧法解体の立場を強く主張したが、結果は退けられた。
ではランズベリ―がなぜ救貧法解体を強く主張したのだろうか?

ランズベリ―は救貧法の院内救済、すなわち、ワークハウスでの劣悪な処遇に強い怒りを覚えていた。だか彼はルール違反と知りながら次のような行為を行っている。津崎先生の論文から引用しよう。

彼は1834年新救貧法違反(救貧法は1601年法と1834年法になるが、どちらとも院内救済の徹底が根幹である。ではなぜ1834年に法改正をしたのか。1601年法の非人間的な処遇に対しての抵抗として院外救済が常態化したため、改めて締め付けを図る意味で院内救済、ワークハウスでの徹底的な労働強化を行った)である労働テストをせずに失業者に院外救済を実施した。また他の改善策実施の結果、救貧支出増大に対する住民からの苦情が起こり、ランズベリーらによる救貧行政の人間か(貧窮者への人間的取扱い)は、1834年法の原理(劣等処遇(救貧者の救済は労働者の最低生活の下)院内救済、行政の全国統一)を大幅に逸脱しており、所轄する役所からは『許しがたき違法行為を公然と遂行する存在』と指摘されるに至った。

この中で救貧法局ジェイムズ・スチュワート・デイヴィ(時の政府は自由党政府だが)から激しい糾弾を受けることになった。
デヴィは、ランズベリ―が働く地区の労役場、ワークハウスで1906年に20日かけて徹底的な調査を行っているほどだ。しかしこの調査では何らの落ち度は見出すことができなかったが、デヴィは「敵対する労働党救貧委員の策定した人間的な扱いが1834年法原則を逸脱し、しかも働ける失業者に院外救済を行える決議をしたことが、救貧支出増につながり、これらは偏に救貧委員の責任であり、独自の救貧施策を行ってきた彼らの責任を問い」ということになった。

津崎先生よるとこれほどまでのデヴィがこだわったのは、この一部地域のありようがすなわち人間的な処遇を求めることが1834年法の基本原理を逸脱しておりその影響が全国にも広がりを見せていたためにこれを何としてでも食い止めたかった、としている。中央政府の権力が及ばないことへの恐怖感があったのだろうか。

ではいったいこれほどまでにランズベリ―らが指摘し続けたワークハウスの問題とはなんであったのだろうか。
「ワークハウスでは、被救済者は労働を強制され、その代償に最低の生活水準が施行された。ランズベリ―の中まであるクルックスの表現によれば、救貧院の状況は『ほとんど胸の悪くなるものである。不潔で、備品はなく、収容者は満足な衣服を身に着けておらず、多くの人は靴をはいておらず、食物は筆舌に尽くしがたい最悪』。そもそもこの仕組みは貧民よく札が目的であったがゆえに、救貧行政はデイケンズの『オリバー・ツイスト』に出てくるワークハウスのような人間味の欠けた処遇で貧民を扱うことが通常」ということさえも言われている。

こういう中でランズベリ―の次のような行動は私の心に留まった。

「あるとき、ランズベリ―ワークハウスを予告なしに監査訪問し収容者に提供されるポリジ(麦粥)に黒いものが浮いているのを発見した。果たして、それはネズミの糞であった。彼が女院長を呼んで訊問すると、院長は『ポリジには問題はなく、影響があります』と応答した。そこでランズベリ―は『よろしい、それならあなたが一口食べてみせてください。そうすれば私の主張が間違っていたことが判るでしょう』とポリジをひとさじすくって、院長に食べさせようとした。院長は困ってしまい、収容者へ提供する食物は自分たちが食べるものとは違い劣悪なものであることを認めた」

ランズベリ―らのこういう地道な活動が「救貧制度を実質的な生活保障制度に置き換え」と評価されている。
それは
@院内救済の前提である労働テストの廃止、A一般混合ワーハウスの廃止(子供も高齢者に対してもその特性を踏まえずに処遇を行っていたそれのありようを転換させ、あ)高齢者には医療・介護サービスの提供と医師看護師などの有資格者の配置と最低賃金制度の確立、い)児童への救貧学校における教育の機会の保障と職業訓練の実施、う)能力がある労働者には農園の建設と促進。雇用の斡旋と起業。B院外救済の無条件定期用とどこ時の救済基準の策定。

ランズベリ―は、妻と共に一生、弱い立場の人々に向き合い、時の政府と徹底的に対峙し、そして現場に足を運び、現実の問題の改善を忘れなかった。ランズベリ―は81歳の生涯を閉じるがその生涯を象徴する彼の言葉がある。それを紹介してランズベリ―とお別れしよう。

「私たちのうち誰も金持ちにはならないであろう。この地上を去るとき、私は何の財産も、金も残さぬつもりである。それでも、その時に臨んで次のようには言えるだろう。大勢の人々と一致団結し、私たちは貧しい人々、抑圧された人々が生きる希望を失わないよう、ニードをもつ人々のそれが充たされるよう、最大の努力を積み重ねてきたのだと」

心を打つ言葉だ。

ランズベリ―が今、日本に生きていたとすれば、彼は何をしたのだろう。天国で彼と出会うことがあれば聞いてみたい。

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