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zoom RSS Aくんといのちの言葉

<<   作成日時 : 2012/09/30 22:05   >>

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 まもなく10月になり、ひとりとみんなのブログをどのように装うべきか考えています。
でもそう力んでも、できることは多くはないし、力みすぎると自惚れになってしまうので、力みながら、でも力を抜いでこれからも書かせてもらいます。

この間、フェイスブックにアップしたAくんのお話を今日はしようと思います。

実は、ずいぶん言葉を進めていたのですが、フェイスブック側からの字数制限のコントロールがあり、中途半端な文章になってしまいました。

まずは、お伝えしたかった文章を書いていみます。

 「先日、長男の同級生であるAくんと会いました。彼はダウン症がありながらも、小学校までは普通学級に通っていました。小学校卒業後は、養護学校(特別支援学校)に通い、そして今は、障害者の方々の作業所であるお豆腐製造販売会社で働いています。そのAくん通りすがり、「Aくんのお豆腐はおいしいね」「おいしいお豆腐を作ってくれてありがとう」と話すと、喜々として声をあげていました。私には何を言っているのかは分かりませんでしたが、心から喜んでいる、うれしいんだという気持ちは十分に伝わってきました」

 このことから、私が考えたことを述べます。

 ミシェル・アンリというフランスの哲学者の近著に「キリストの言葉〜いのちの現象学〜」があります。難しいことは抜きにしていえば、この本では「キリストという神の言葉を我々はどのように聞こうとしているのか?その言葉を本当に聞けるのか」また「命の言葉、いのちとは何か」について深い思索を行っています。

 少し解説をしておくと、神様という存在がある、またはあるかもしれない。その存在は、我々には決して認知できない。すなわち、神様が何を考えているか、本来的には人間にはわからないはずだ。それが神聖というものであり、そこに人間は根源的な怖れを持つのだと。もしもイエスがキリストだとしたら(キリストとは救い主という意味なので、イエスは救い主、すなわち神様ということ)、その言葉には二重の意味があるのではないか、すなわち、一つは神の言葉であり、もう一つは人間イエスの言葉だということである。キリストが語る神の言葉は、実は人間的な装いでありながら、実は我々の価値の逆転なしには、受け止めることができない内容だということである。例えば、あなたの隣人を愛しなさい。我々は、ぎりぎりの状況で隣人を愛することはできるのだろうか。利益が相反する人を愛することができるのだろうか。これなどは、我々の価値の中で右往左往していては決して理解できないし、きれいごとの誹りさえ受ける事になるのだろう。すなわち、キリストの言葉は、人間的な言葉にも見えるが実はとことん、我々に生き方の大転換を迫る神の言葉だと、アンリはいうのだ。

このことはこれくらいでいいでしょう。

アンリはこの本の中で私に問うていることがあります。
引用しましょう。
「苦しみは苦しみ自体を感じ取る。だからこそ、すでにみたように、我々が苦しみを知るためには、我々自身が苦しむしかないのだ。そのようにしてのみ、苦しみは我々に語りかけるのであり、苦しみは、苦しみにおいて、我々に語るのである。そのようにして我々に語りかけることによって、苦しみが我々に語っているのは、苦しみが苦しんでいる、苦しみは苦しみである、ということに他ならない」

 すなわちアンリは、苦しみを外在化し理解してもあまり意味がないということです。分かりやすく言うならば、広辞苑で苦しむを調べると「苦しいと思う事」とあります。では苦しいとは、身体が痛んで辛いとか心がもだえて安らかでない、とか、切ない、とあります。では、こうして調べた苦しみは、我々は理解できていますか。確かに苦しみを対象化して、距離を置いてみることはできていますが、その本質は分かりません。ここで納得いかない人間は、この苦しみをもたらす何者かに対して責任を転嫁しようとする構えを作ります。そしてそれは永遠の憎しみにつながり、決して自分が癒されるわけではないということです。問題を外在化することで始まる負の連鎖。
この負の連鎖から解放するためには、問題を対象化しないで、そのことと向き合ったらどうかな言っているのだと思います。すなわち、苦しんでいるその苦しみこそがあなただし、あなたの命が苦しんでいるということだと・・・つらいのは、あなたなんだから、あなたがちゃんと向き合ったら、苦しいよっていっているあなたをもっと、いや、あなたを根本で支える、有限のあなたのを支える無限のいのちをもっといとおしんでみたら、ということではないかと思います。
 

このアンリの言葉に触れてから、Aくんに会ったのですが、Aくんはまさに命を生きている、自分に与えられている命を生きていると感じました。「僕の作ったお豆腐がおいしい」「なんとうれしい」「僕の作ったお豆腐をおいしいと食べてくれる人が僕の目の前にいる。「なんとうれしい」

 人間は知恵を持つようになり、それも急速にそのことが増大し、自分のうちなら声よりも沢山の知識を優先する生き方を得意としてしまいました。でもその分、生き生きと生きるということを失ってしまったがゆえにたくさんの失意も背負わされています。

 喜びや苦しみという命の声に聴き従う事の大切さをAくんは教えてくれているように思いました。

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